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岡山県(おかやまけん)は日本の本州の西端の中国地方に位置し、 瀬戸内海に面した県。瀬戸内海には大小合わせて約90個の島を有す。 広島県東部に位置する備後地方や香川県島嶼部などと合わせ、古くは「吉備国」と呼ばれた。
1989年からは、降水量1mm未満の日数が全国第1位である事から『晴れの国』を県の標語としている。

原始・古代
倉敷市の鷲羽山遺跡などから、旧石器時代から人々が居住していたことが窺える。 古代は吉備国といわれ、畿内地域や北九州地域、出雲地域、毛野地域等と共に、 日本列島の中心地の一つとして栄えていた地域である。 吉備国は畿内勢力と同盟関係を築いて日本列島の統一期(四世紀中葉)に影響を与えた。 その支配地域は現在の岡山県・広島県中東部・香川県島嶼部・ 兵庫県播磨地方に及び、さらには四国や芸予諸島にも至っていたとも言われている。
奈良時代に権勢を振るった吉備真備は吉備国出身で、下道氏の一族である。 また、道鏡の天皇位簒奪を阻んだ和気清麻呂も吉備国出身である。 その後、吉備は備前、備中、備後、さらには備前から美作に分国される。
平安時代には平氏の勢力圏であった。

中世
鎌倉時代にはもともと東国を拠点とする那須氏・松田氏・三村氏・庄氏・赤木氏などの諸氏が地頭職など を得て移住・土着した(東国から西国に移った鎌倉幕府御家人という意味で西遷御家人と呼ばれる)。 室町時代には鎌倉幕府倒幕に活躍した播磨の一豪族・赤松則村(円心)が 播磨・備前・美作3国を領有。 以後赤松氏が代々3国の守護職を受け継いで、 この3国はほぼ連動した歴史を展開する。
赤松満祐が嘉吉の乱で時の将軍足利義教を討った為赤松氏は一時衰亡、その後は山名氏が3国を領有している。 戦国時代に東軍の細川勝元より3国守護職を約束された赤松政則が山名氏を追放、 再び3国守護職に返り咲く。しかし、赤松氏の復活もここまでで、 三石城城主・浦上村宗によって政則の子が殺され赤松氏は衰退の一途を辿る。 赤松氏に取って変わった浦上氏であったが、晴宗の代には家臣であった宇喜多直家によって滅ぼされた。
戦国期を通じ、現在の岡山県域を統一する一大勢力は遂に出なかった。 これは、岡山県が戦国前期には尼子氏・大内氏等の草刈場と化し、後期においては東の織田氏や西の毛利氏の衝突地点となった為である。その中で、備前の宇喜多氏や鎌倉期以来の有力地頭・備中の三村氏等が国人領主を纏めて勢力を誇っていたとはいえ、これも東西勢力の代理戦争との嫌いがないではなかった。豊臣秀吉との縁を得、戦国末期まで家を保持・成長させた宇喜多氏は例外であろう。
近世
備前備中美作3国守護の宇喜多秀家が豊臣秀吉の許しを得て岡山に築城、岡山市の近世はここから始まる。その後、1600年の関が原の戦いで西軍が敗れたため、宇喜多氏は所領没収のすえに八丈島に流された。戦勝国である小早川秀秋が3国を領有したが2年で後嗣なく死去、改易となった。 1603年、西国将軍と称された池田輝政の子池田忠継が備前38万石に入った。忠継・忠雄のあとに岡山に入部する池田輝政の孫の池田光政が岡山藩の基礎を築いた。 美作には森氏が入封し津山藩が成立した。
備中は小早川氏改易のあと、一国を管轄する藩が置かれず幕領と大名領・旗本領が錯綜した。備中松山藩を筆頭に、足守・備中新田・庭瀬・成羽などが成立した。倉敷に置かれた幕府陣屋は備中のみならず周辺諸国の幕領も管轄統治し、その繁栄は岡山以上とも言われた。 19世紀に入り財政状況が悪化すると岡山藩は被差別部落への差別を強化した。その結果、1856年に備前一国を巻き込む渋染一揆が発生した。 戊辰戦争の際、備中松山藩は当時の藩主である板倉勝静が老中職にあったため朝敵となり岡山藩などの攻撃を受けた

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